池間島まるごと暮らしのミュージアム

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池間島とは?

  
  

 


◆池間島の位置と地形

池間島は宮古島(宮古島は沖縄本島から南西におよそ290キロ離れている)から、北西1.7キロの距離を隔てて位置する9つある宮古諸島の離島のひとつです。
宮古島とは池間大橋(1992年開通、全長1425メートルで開通当時は県内最長の橋)によって架橋されており、周囲は9.03キロ、面積が2.93平方キロの馬蹄形をした島です。 隆起珊瑚礁で形成された島は、高い山はなく平坦で外周部から中央部に向かって傾斜しています。島の中央には「イーヌ・ブー(北の入り江)」や「ユニムイ」と島の人が呼ばれる湖沼湿原が広がっており、水鳥や湿地帯植物の宝庫となっています。1934(昭和9)年に干拓のための防潮護岸が築かれ、入り江は汽水の「ユニムイ湿原」と呼ばれるようになりました。
さらに戦後、1963〜1983年の漁港工事によって湖沼と海をつなぐ水路が埋め立てられたことから、湿原は淡水化・陸地化が進み、37ヘクタールあった内水面は現在ではわずか10ヘクタールにまで縮小しています。


◆池間島の人口

2010(平成22)年の人口(3月末住民基本台帳)は、731人。
池間大橋架橋前の1980(昭和55)年の国勢調査による島の人口は1193人で、わずか30年間の間におよそ4割も人口が減少してしまいました。
また、2010年の65歳以上の人口は335人にもおよび、高齢化率が46.8%(1980年は18.4パーセント)と、高齢化が大きく進行しています。
池間島の学校は2011(平成23)年から、小中併置校の池間小中学校として新たなスタートを切りました。2013年度の児童数は23名、中学校の生徒数は12名と決して多くはありません(複式学級までにはなっていません)。


表 グラフ

◆池間島の産業

「海洋民族の伝統を受け継ぐ」と言われるほど、池間島では古くから漁業が盛んでした。
現在でも基幹産業は漁業であり、特に戦後はカツオ・マグロ遠洋漁業の基地として大いに賑わいました。
また、深海一本釣り(「石巻落とし漁法」というユニークな伝統漁法も伝承されています)や、サメ漁などが広く行われています。
池間島の北東5〜15キロの海域には、宮古島の三分の一もの面積を有する大規模なサンゴ礁「八重干瀬(やびじ)」が広がっており、豊かな漁場として、釣りやダイビング、シュノーケリングのポイントとして高い人気があります。
しかしながら、近年の高齢化や魚価の低迷などにより、漁業で生計を成り立たせることは難しくなっています。
かつては漁協のカツオ節工場が稼働していましたが、現在は閉鎖されてしまいました(宮古域でカツオの加工は池間島を祖とする伊良部島の佐良浜でわずかにおこなわれているだけとなっています)。


◆池間島の生活と文化

現在の島民のおよそ7割が漁業に関わって生活をしています。
大きな耕作面積が取れないため、農業は小規模で自給的なものばかりですが、昔から生活に必要な多種多様な野菜や穀物、豆類、果実などを栽培して、半農半漁の暮らしを成り立たせていました。
しかし、近年では島の人々の高齢化に加え、宮古島のスーパーなどで手軽に野菜が買えるようになり、手間をかけて農業を継続する人が減ったため、耕作放棄地が増加しており、環境や景観への影響が懸念されています。
島の総鎮守府ともいえる大主神社(ウハルズ御嶽)を中心に、毎年旧暦九月に行われる「ミャークヅツ」は、池間島の伝統芸能や覇龍船競漕(ハーリー)といった伝統文化を継承する池間島最大の祭祀で、琉球王府以前から連綿と続く御嶽(うたき)信仰の風習を、今も色濃く伝えており、民俗学の観点からも注目を浴びています。



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          第一回 イーヌブーと池間島の暮らし
          第二回 池間の自然を学ぼう
          第三回 いけまのイケ弁をつくろう
          第四回 じょーじょーはいんかい!畑へ行きましょう

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事業名:食と地域の交流促進活性化対策・観光と連携した都市農村交流促進(グリーンツーリズム)事業
事業主体:池間島暮らしツーリズム協議会(池間自治会、すまだてぃ会、池間老人クラブ、NPO法人いけま福祉支援センター)

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